ポルトガルから
伝わって400年。
なぜ、長崎でカステラは育ったのか。
しっとりとした生地、底に残るざらめの粒。今日も変わらず愛されている長崎カステラには、400年以上にわたる歴史があります。海の向こうから伝わり、長崎の地で独自の進化を遂げ、全国へと広まっていったカステラの歩みをたどります。
- EPISODE.01-01
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鉄砲とともに、
南蛮菓子がやってきた -
1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し、日本に鉄砲をもたらしました。これが日本とポルトガルの交流のはじまりです。その後、宣教師や貿易商人が次々と日本を訪れるなかで、カステラをはじめとする南蛮菓子も日本に伝わりました。
1570年、長崎が日本初のポルトガルとの貿易港として開港すると、カステラは長崎の地に根づきはじめます。当時のカステラは「カスティーリャ王国のお菓子」として紹介されたとも言われており、その名前が訛って「カステラ」と呼ばれるようになったという説が有力です。
- EPISODE.01-02
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なぜ長崎で
カステラが育ったのか -
カステラの材料には砂糖がたっぷり必要です。当時の日本で砂糖は非常に貴重なものでしたが、長崎は貿易港として砂糖が豊富に手に入る特別な土地でした。他の地域では作りたくても素材が揃わなかったカステラが、長崎では存分に作れたのです。
さらに、長崎の菓子職人たちはポルトガル伝来の焼き菓子に独自の改良を重ねていきました。卵をふんだんに使い、水飴を加えてしっとりと焼き上げる——。長崎ならではの環境と職人の技が合わさって、今日の長崎カステラの原型が生まれました。
- EPISODE.02-01
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長崎だけが、
外国とつながっていた -
1639年、江戸幕府が鎖国政策を完成させると、日本の外国との交流はほぼ断絶されました。しかし長崎だけは例外で、出島を通じてオランダや中国との貿易が続けられました。
カステラは、鎖国の時代にも長崎で作り続けられました。むしろ外国との交流が長崎に集中したことで、砂糖などの素材が安定して手に入り、カステラの製法はより洗練されていきます。江戸時代の長崎では、カステラは長崎奉行や大名への贈答品として扱われる高級な菓子でした。
- EPISODE.02-02
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坂本龍馬も
食べたカステラ - 幕末の志士・坂本龍馬が慶応3年(1867年)に長崎で組織した「海援隊」の日誌には、カステラの材料と作り方を記した項目が残されています。「玉子百目、うとん七十目、さとふ百目。此ヲ合テヤク也」——当時の長崎でカステラがいかに身近な存在だったかを物語るエピソードです。
- EPISODE.03-01
- 文明開化とともに、 長崎から全国へ
- 明治維新により鎖国が解かれると、長崎カステラは全国へと広まっていきます。文明開化の波のなかで、舶来のお菓子であるカステラは「文明的で洗練されたもの」として、全国の人々に受け入れられていきました。 文明堂総本店が長崎で創業したのは明治33年(1900年)のことです。創業以来120年余り、長崎カステラの伝統の味を守りながら、全国のお客様へお届けし続けてきました。
400年以上の時を経て、
長崎カステラは
今も変わらず
愛されています。
小麦粉・卵・砂糖・水飴という
シンプルな素材、
木枠で丁寧に焼き上げる製法、
底に残るざらめの食感——。
ポルトガルから伝わったお菓子が
長崎で独自の進化を遂げ、
日本の食文化に根付いた歴史は、
一切れのカステラの中に
しっかりと生きています。